夢と人と自分に向き合ったそれぞれの甲子園 【後篇

2024年11月21日(木)、に開催された「第3回全日本大学準硬式野球 東西対抗日本一決定戦」。全日本準硬式野球連盟の中の「甲子園プロジェクト」チームが企画・運営するこの大会には、本学準硬式野球部から4名の部員が選手・スタッフとして参加した。   2泊3日の大会を通じて感じたこと、そして「甲子園」とはどういうものだったのか。それぞれの思いを語ってもらった。

さまざまな野球観を知ることも自分の糧になると思う

俵田 悠平 編

明るいグリーンを基調としたユニホームの東日本選抜チーム。だが、その中に背番号がない選手が2人いる。それは選手ではなく、試合中のボール管理を任されるチームスタッフ「ボールパーソン」。本学準硬式野球部の俵田悠平選手(文理3・桐蔭学園)はその1人として甲子園大会に参加した。

(ボールパーソンとして参加した俵田悠平(文理3・桐蔭学園))

神奈川の強豪高校の出身だが、3年間のほとんどはスタンドが定位置だった。「硬式野球をやる自信がなかったので」と、入学時は試合に出る機会を求めて準硬式野球の門を叩いたが、想像していたよりも選手のレベルが高く、試合に出るのも容易なことではないと気づいた。「ここでも無理なのかなと思っていたし、最初の頃はつまらなかったですね。スタンドから試合を見ていると、チームに緊張感がないようにも見えました」と、部活に前向きになれず、練習に出ないでリトルリーグのコーチに行くようなこともあった。

だが、その年(2022年)の全日本大学選手権で本学は7年ぶり6回目の全国優勝を飾る。チームが躍進する様を目の当たりにしているうちに、「なんだかすごいチームだな」と少しずつ心境も変化していった。 さらに、「高校時代に比べれば楽で、余裕があった」という冬練習の際、当時の主将に「すごいな」と声を掛けてもらったり、メンバー入りまであと1歩だったと教えてくれた先輩の言葉に発奮。2月の関東選手権前の練習試合に二塁手として出場すると攻守でアピールに成功し、やがて怪我人が出て空席になっていた遊撃のポジションについた。練習試合では、ヒットエンドランのサインが出ていた時に、頭付近に来た投球を打ち返して安打を記録。「これを自分の武器にするんだ」という強い思いで取り組み、2023年春季リーグ戦で初めてのベンチ入りをつかみ取った。今はチームの主務として、東都リーグ戦の試合運営、チームの練習試合調整やスケジュールマネジメントなど事務的なことにも力を注いでいる。

俵田選手は社会人野球が好きで、1・2年生の頃は都市対抗野球の試合をよく観戦に行っていた。やがて、杉山智広コーチから都市対抗の東京都第2次予選でボールパーソンをやってみないかと言われ、喜んで引き受けることにした。数多くの試合で社会人野球をグラウンドレベルで体感できるようになったが、常に緊張感もあった。「社会人野球は都市対抗出場が大きな目標なので、予選を勝ってその舞台に行けるかどうかは天と地の差があります。ボールパーソンといえども、試合中に何かミスをしてピッチャーのリズムを狂わせたりしたら申し訳ないので、そこは意識して気をつけていました」

そんな俵田選手が、「全く考えていなかった」という甲子園大会で、東日本選抜チームのボールパーソンを任されることになったのも、これまでの経験値や真摯な態度が評価されたがゆえのこと。そして何より「彼は野球が大好きなんですよ」(杉山コーチ)というところにある。

「いろんな大学から上手い選手が集まっている中で、いろんな話をして、こういう考え方があるんだなとか、そういうことを考えているんだなっていうのを知り、自分の野球観につなげていきたい」と、俵田選手は大会参加を自らの成長の糧にしたいと話す。「自分の凝り固まった野球観だけではなく、いろんな野球観を知ることで、例えば少年野球のコーチをやるような時でも、多様な考えを持って教えられるようになればいいなと思っていますし、そこをめざしていきたいですね」

さらに、インテグリティ研修を受けて「目標を持つことの重要さを知った」と言い、「目標に向かってどう進むのか、何をすればいいのかというプロセスを意識して物事を進めていくことができれば、上手くいく可能性が高まると感じた」と、チームとしての成長にも役立つと考えた。

「“全日本優勝”という大きな目標というところでは同じ方向を見ていると思いますが、そこに向かってどうするのかというところを、選手1人ひとりが意識してやれているのかというのを問いかけてみたい。それをどうやって伝えていくのかというのも研修で学べたと思います」

プレ東西対抗戦でもボールパーソンを務め、選手たちに混じりベースボール5も楽しんだ。翌日の本番に向けては、「審判によって違いはありますが、上手くやれるイメージはできています」と自信を見せる。プレーをしなくてもきっと、甲子園のグラウンドで確かな存在感を放つに違いない。

JUNKOとともに歩み、成長してきた4年間

今井 瑠菜 編

甲子園プロジェクトの学生委員として、今大会で3年連続3回目の参加となる今井瑠菜さん(経済4・日大鶴ヶ丘)。

(本学マネージャー 今井 瑠菜(経済4・日大鶴ヶ丘))

コロナ禍で高校野球の甲子園大会が中止になり、野球部のマネージャーとしての不完全燃焼な気持ちを大学で晴らそうと思っていたところ、「高校生と同様に、選手たちが“日本一”という同じ目標に向かって努力している姿が、より魅力的だった」と、硬式野球部ではなく準硬式野球部のマネージャーとなることを決めた。

「選手たちが私の意見を聞いて、尊重してくれる」という風通しの良い環境の中で献身的にチームを支え、関東連盟での仕事にも携わっていた2年生の時、甲子園プロジェクトへの参加を打診された。そういう計画が進んでいることさえ知らなかったが、大会開催のために奔走してきた杉山コーチの、「日大生としてではなく、人として評価している」という言葉に喜びを感じ、即「やります」と返答したという。

甲子園大会1年目は、プロジェクトの学生委員全員が右も左もわからない状態の中で「自分ができることをやりました」。しかし、試合は無念の降雨中止。その分、快晴の中で好ゲームが展開された2年目は、大会の成功に大きな喜びを感じた。 そして今年、最上級生となり、すでに大学のマネージャーは引退していたが、関東連盟の活動が継続されている中で、実務経験者としてプロジェクトのサポート、主に広報関連の仕事について引き継ぐために三たび参加することになった。

プロジェクト学生委員としての3年間は、大学でのマネージャー業務とは違う経験も多く、そこにはさまざまな学びと苦労があった。思ったことを物おじせずに口にするタイプの今井さんは、「関東連盟の中で、私は最初から生意気で破天荒と思われていますが、それをみなさんが尊重してくださっていまし。落ち着くところに落ち着くというのが苦手で…(笑)」。だが、甲子園プロジェクトで他地区との関わりが増える中で、「関東の当たり前は、関西の当たり前じゃない。逆もまた然りですが、自分が良かれと思ってやったことが逆効果になることもありました。私は何でも誰にでもバァッて言ってしまいますが、それをしちゃいけない時もあるんだなって気づかされました」。

そこで2年目からは、コミュニケーションの仕方を変えた。「まず、他地区の先輩たちが何を思っているのかを聞き、それから『私はこういう風に思うんですけど、これってこうしたらいいんじゃないですかね』という言い方にしたら、会話が続くようになりました。自分が言えば大抵は『そうだね、そうしようか』と言ってくれるんですが、会話が続いた方がより深みが出るし、もっと良くなっていくように感じました」

(気持ちは常に高校球児)

今大会に向けては、「これまでの大会と、いい意味でどう差をつけていかなきゃいけないのか」という点を考えたという今井さん。大会開催に対する高いハードルもある中で、どうしたらみんなが納得し、よりいい形で大会を迎えられるのか。そのために連盟の中でのコミュニケーションを深めることや、運営側の立場として、選手・スタッフと話をする時は努めてにこやかに接するように心がけた。「意義のある大会だからこそ、どうやったらそれをみんなに伝えていけるかというのを考え、意識して行動していました」。

聖地・甲子園、そしてこの大会は、今井さんにとってどういうものかをたずねると、「甲子園は、それぞれの人にとって、一番辛かった時のことを思い出すところだと思っています」とユニークな視点の答えが返ってきた。「ここに選ばれて参加している人はみんなうれしいと思いますが、その裏にはきっと辛い経験を持っていると思うし、それを乗り越えてたどりついて来ている。だから高校球児と同じように、準硬式の選手たちはみんなキラキラしているのかなと思います」

さらに「準硬式野球に関わっている人で、この大会に選抜される選手・スタッフはとても少ないですし、多くの方の協力で成り立っているマイナースポーツの大会。スポンサー企業さんにとってのメリットも大きくはないかもしれませんが、それでも応援したい、支えたいと思ってくれている人がいるのは、JUNKOの、そしてJUNKO人の魅力を感じてくれているからだと思います」と続けた今井さん。「そうしたJUNKOのいいところが目に見えるのが甲子園大会。そこに携わることができた3年は、これから私が生きて行く中でも思い出深い3年間になると思います」

準硬式野球の良さを、「野球を嫌いにならないところ」だという今井さん。日本大学準硬式野球部のマネージャーとしてチームを支え、連盟も支えてきた4年間はかけがえのないものであり、同時に、いつも叱咤激励されているという後輩たちの話を聞いても、大きな存在だったことが窺い知れる。他大学のマネージャーから、チームの中での存在意義に悩んでいるという話をよく聞くというが、「そうしたことで悩んだことが一度もない」と言い、「私の話もしっかり聞いてくれる。個人を尊重してくれるのが日大JUNKOだと思います」ときっぱり。

そして最後に、今井さんは勢い込んで言った。「私、日大JUNKOが大学準硬式の中で一番いい野球部だと思ってるんですけど!」

その声は心持ち甲高く、力強く、温かかった。

「甲子園」が教えてくれたことを、これからの日々のために

大会最終日の11月21日(木)午前9時。雲ひとつない青空が広がった阪神甲子園球場で、いよいよ東西対抗日本一決定戦が始まった。

初回、先攻の西日本選抜は三者凡退の後、後攻の東日本選抜は1番・二塁手で先発の山口瑶介選手(経済2・日大二)が甲子園初打席へ。カウント3-2からの高めのボールを見送り四球を選んだ山口選手は、前日の言葉通り、満面の笑みを浮かべながら一塁ベースに立った。その後一死一・二塁から4番打者が左前適時打を放ち、山口選手が生還して1点を先制。東日本選抜のダッグアウトは盛り上がり、山口選手をハイタッチで迎えた。

2回に回ってきた山口選手の2打席目は、二死二塁のチャンスだったが、変化球にバットが空を切り三振。以降は、両軍ともにチャンスを作るもあと1本が出ず、無得点が続いた。

しかし、7回裏に東日本選抜が、2本の適時打で2点を追加。7人の投手による完封リレーで3-0と西日本選抜を下した東日本選抜が、見事に大会2連覇を飾った。

東日本選抜の選手たちがマウンド付近で雄叫びを挙げる歓喜の輪、ゲームセットの挨拶後に相手選手と交わす短いやりとり、そして、両軍の選手・スタッフによる観衆や家族・関係者、友情応援で参加した関西学院大学・同志社大学の応援団吹奏楽部への感謝を込めた一礼。誰しもの顔に、清々しい笑みが浮かんでいた。

勝利の瞬間、真っ先にベンチから飛び出し、マウンドに駆け寄って喜びを分かち合った山口選手。「めちゃめちゃ楽しかったです」と、試合後も興奮冷めやらぬ口調で話す。

「最初の打席はとても緊張しました。甲子園球場は広かったですし、お客さんもいっぱい入っていただいたので、いつもの球場とは違う特別な空間というのを感じていて、フワフワした感覚でやっていました。二塁ベースから見る景色も最高でしたし、ホームまでベースランニングをしている時も気持よかった。ベンチでも楽しくて気持が高揚し、自然と声も大きくなっていました」

改めて、今大会とはどんなものだったのかを問うと、「大学で野球を終えようと思っているので、大学生になって甲子園で野球をやることができ、本当に特別な時間だったなと思います。3・4年生が多いチームでしたが、みなさんやさしくしてくれて、とても楽しい3日間でした」との答え。

そして、「今の日大チームの中では、この場所でプレーしたのは自分しかいないので、この3日間で学んださまざまなことをチームに還元していければいいなと思います」と、昨日にも増して目を輝かせて笑った。

タイミングを見て主審へボールを補給する。ファウルボール回収のために走る。打者のバットを片付ける。そして、攻守交代の時間は選手たちに声を掛けて回る。インプレー中に声援を送ることはできないが、俵田選手は一塁側ダグアウトの横で、東日本選抜のチームメイトとともに戦っていた。

9回表、一塁線に転がったファウルボールを回収するためにライト深くまで全力疾走を見せ、「目立つところは目立たないと」と笑った俵田選手。今大会を振り返って「楽しかったですね」と話し、「多くのご支援があって大会を開催できたことにまず感謝しています。自分自身はプレーしていませんが、いろんな経験ができた大会だったし、忘れられないものになりました。この大会を通じて知り合った仲間とも今後つながりがあると思いますし、大事にしていきたいと思います」。

日大での活動はあと1年だが、「その先も野球には何らかの形で関わっていきたい」という俵田選手。「できることなら、草野球でもう一度ここに来て、今度はプレーしてみたいですね」と、夢を語った。

東西対抗戦の後は、「第42回全日本大学9ブロック対抗準硬式野球大会」の決勝戦。初の甲子園決戦は、昨年の覇者・全関東選抜を準決勝で破った全九州選抜と、全関西選抜が対戦。互いに譲らず終盤まで0-0の投手戦になった。しかし、8回表に九州選抜が4安打3四死球で一挙5点をもぎ取ると、その裏の関西選抜の反撃を3点に抑えて逃げ切り、8年ぶり7回目の優勝を飾った。

9ブロック大会の表彰式、そして東西対抗戦メンバーも加わった閉会式を終え、2024年度の甲子園プロジェクトは幕を閉じた。 それからしばらくの間、グラウンド上では全選手とチームスタッフ、そして甲子園プロジェクトチームのメンバーも加わってあちらこちらで輪をつくり、それぞれの健闘・奮闘を称え合い、またの再会を約束し、写真を撮り合うなど、和やかな雰囲気につつまれた。

甲子園プロジェクト初参加の久保田里江子さん(法2・日大櫻丘)は、「見るのも来るのも初めての甲子園で、ドキドキワクワクしていました」。この日は試合開始までは、来場者入り口で自身が手がけた大会パンフレットの配布と誘導を行い、試合が始まってからは撮影係として一眼レフカメラを手に場内を動き回り、一塁側・三塁側のスタンドから、グラウンドレベルからと選手やチームスタッフの勇姿をカメラに収めてきた。 「自分の役割は全うできたかなと思います。準備期間も含めて、自分が成長するきっかけになった大会。来年もここに立ちたいと思いました」と話したところで、急に熱いものがこみあげてきた。「やりきったという気持ちもあるし、先輩たちの動きを見ていたら、自分はもっとできたんじゃないかという悔しい気持ちもあります」と、上ずった声で話す久保田さん。

前日のプレ東西対抗戦からの3試合、および体験プログラムを含め、相当数の写真を撮影したが、それを整理してグループLINEで送ったり、大会の活動報告書の作成も担当するなど、久保田さんの仕事はもうしばらく続くそうだ。

閉会式後の交流タイム、関係者や学生たちとの会話や写真撮影に忙しく動き回る今井瑠菜さん。マイクを向けると開口一番、「今年の1文字は、“影”ですかね」と切り出した。前日の取材時、「昨年の大会は漢字1文字で “繋”と表現していましたが、今年を表す漢字は?」との質問に答えを保留していたが、しっかり考えていたことに誠実さを感じずにいられない。

「私はこれまで、こうした大きな大会に参加させてもらっていても、役職につかず、いろんな場面で影のように裏で動くことが多かった。それが自分に向いているし、一番力を発揮できるところだと思っています。甲子園大会も、準硬式での4年間でも影として目立った活躍はしていないかもしれませんが、いろんなことに携わることができて本当に良かったと思っています」

また、今井さんは、関西の強豪チームとして自身で取材し、「一番刺激を受けた」という大阪経済大学の準硬式チームをはじめ、全国の学生と関わることを大切にしてきたという。「個人的にライバル視していて、向こうも日大をライバル視してくれていた」という大経大とは、昨年一昨年と全日本選手権の決勝で対戦(1勝1敗)したが、今年はそれが叶わなかった。しかし、今大会で大経大のメンバーと再会し、旧交を温めることができた。グラウンド上で東西のメンバーが盛り上がる様子に目をやりながら、「そういう全国区の交流というのはあまりないので、今回参加した人たちには、チームとしての遠征を多く組むなど、他地域の人と交流する機会をつくってほしい。甲子園の舞台でも、全国で人それぞれに考え方が違うことを知れるし、そういう点も吸収して成長してもらいたい」と期待を口にした。

閉会式の最後、降納される国旗を見つめながら、「高校からの硬式と準硬式の7年間のマネージャー生活、野球人生も今日で終わりなんだな」と感傷的になったという今井さんだが、大学準硬式野球の発展を願う気持ちに終わりはない。

「私は今大会くらいまでが土台作りだと考えていました。次回以降は皆さんも変革を求めていると思うので、新しいことにどんどん挑戦していくJUNKOになっていってくれたらいいなと思っています」とエールを贈り、笑顔を輝かせた。

「選手もプロジェクトメンバーも、みんな素晴らしい活躍でしたね。大成功じゃないですか」と、今大会全般を振り返った杉山大会ディレクター。「ふだんと違う環境と、自分のテンションが上がりすぎて頭が真っ白になってしまい、思うようなプレーができなかった選手がいたかもしれません。ただ、それも甲子園のすごさ。そこを感じ取ってくれたなら十分だと思います」と総括した。

(大会ディレクレター 本学 杉山智広コーチ)

来年以降についてはまだ未定だが、「この大会を見た準硬式をやっている大学生、野球をやっている高校生たちに、『甲子園をめざしたい』というような気持ちの変化が必ず生まれてくると思うので、そこに期待したい。それが準硬式野球の発展と組織強化につながるはず」と力を込めた。

学生たちが主体となり、支える大人たちと一丸となって競技普及に取り組んでいるポジティブな部活、大学準硬式野球。その本質が「勝つより、学ぶ」であるというのが、魅力であり、誇りでもある。チームJUNKOの挑戦は、まだ始まったばかりなのだ。

(甲子園大会を終えた日大のメンバー。左から、久保田マネージャー、今井マネージャー、山口選手、俵田選手、杉山コーチ(大会ディレクター)

~完~

この記事を書いた人

host_junko